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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)3589号 判決 1985年10月28日

原告

片桐旬子

片桐真

片桐稔

片桐剛

右片桐剛法定代理人親権者母

片桐旬子

右四名訴訟代理人弁護士

倉田哲治

森谷和馬

横田雄一

被告

医療法人社団宏明会

右代表者理事

大久保高明

被告

永田博司

右両名訴訟代理人弁護士

高田和広

小海正勝

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自原告片桐旬子に対し、金一九八五万七七一三円、原告片桐真、原告片桐稔および原告片桐剛に対し、それぞれ金一二八五万五一四二円およびこれに対する昭和五二年一二月二二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告ら

原告片桐旬子(以下「原告旬子」という。)は、訴外亡片桐軍三(以下「軍三」という。)の妻であり、原告片桐真、原告片桐稔および原告片桐剛は、軍三の子である。

(二) 被告ら

被告医療法人社団宏明会は、肩書地において医療法人社団宏明会池袋大久保病院(以下「大久保病院」という。)を開設し、またその事業のため、大久保病院において、医師である被告永田博司(以下「被告永田医師」という。)を使用している。

2  軍三の負傷

昭和五二年一二月二〇日午前一時一〇分ころ、東京都豊島区池袋二丁目の歩道上に意識を失つて倒れている軍三を通行人が発見して救急通報し、軍三は駆けつけた救急隊員によつて、近くの大久保病院に収容された。

原告旬子は、右同日午前一時二〇分ころ、救急隊員から電話連絡を受け、直ちに車で同病院に向かい、午前二時ころ病院に到着した。

3  本件診療経過

(一) 原告旬子が大久保病院に着いたとき、軍三は一階診察室の診察台の上に寝かされ、腕に点滴を受けていた。軍三の鼻や口の周囲は血だらけのままで、右眼球は赤く腫れ、眼瞼は殴られたように青黒くなつていた。原告旬子は、軍三の耳もとに口をあてて、大声で繰返し呼びかけたが、軍三は大きないびきをかいたままで何の反応も示さなかつた。

ベットの回りでは、当直医の被告永田医師と看護婦二名が血圧を測つたり、瞳孔反応を見たり、大声で名前を呼んでみたりする程度で、特別に検査を実施することもなかつた。被告永田医師は、原告旬子に対し、急性アルコール中毒であり、時間が経てば醒めるはずであると説明した。

(二) 同日午前三時一〇分ころ、軍三の友人である訴外森山康平が大久保病院に駆け付け、被告永田医師に容態を尋ねたところ、同医師は「酔つているだけだ。」「けいれんが起こつているので、もう三、四時間で眼がさめる。」と説明するだけで、それ以上の検査も治療も行わないまま、診察室を出てしまつた。まもなく、看護婦が軍三を家に連れ帰るようにと言つてきたため、原告旬子らは困惑したが、被告永田医師の指示であるため、連れ帰ることとし、原告旬子の車に軍三を乗せ、原告旬子、右森山およびそのころ病院に駆けつけた友人の訴外栗崎豊の三名は、同日午前四時二〇分ころ、軍三を原告ら肩書住所地の自宅に連れ帰つた。

(三) 軍三は、自宅の部屋に寝かされてからも相変らず大きないびきをかいたままであり、全く意識はなかつた。こうした状態を不審に思つた右栗崎が軍三の頭部をさわつたところ、右側頭部が少し軟らかくなつており、骨折が疑われた。そこで原告旬子は急ぎ電話して救急車の出動を要請した。

(四) 同日午前五時三〇分ころ、軍三は到着した救急車で赤羽中央病院に収容され、レントゲン検査の結果脳内出血を起こしていることが判明した。同日午後三時から約二時間にわたつて手術が行われたが、翌二一日午前八時五二分、軍三は、硬膜外血腫、脳挫傷等による脳腫脹によつて死亡するに至つた。

4  被告永田医師の過失

被告永田医師は、軍三に昏睡に当る高度の意識障害、けいれん等の臨床所見があり、妻や友人から、軍三の日頃の酩酊状態とは異なる旨の再三の申出があつたのであるから、医師として、頭部外傷にもとづく重篤な疾患を疑い、速やかに、眼底検査、頭蓋X線撮影、髄液検査、頭部超音波検査、脳血管撮影等のしかるべき検査と治療を行うべき注意義務があつた。

しかるに、被告永田医師は、これを飲酒による泥酔状態と軽信し、頭部外傷に対応する措置をとらないまま軍三を退院させ、その結果寸刻を争う治療を必要とする軍三に、本来なされるべき治療を遅らせ、死に至らしめた。

右は、被告永田医師の重大な過失にもとづく違法行為というべきである。

5  損害<以下省略>

理由

一当事者

被告医療法人社団宏明会が、肩書地において大久保病院を開設し、またその事業のため、同病院において医師である被告永田博司を使用していることは当事者間において争いがなく、原告片桐旬子本人尋問の結果によると原告旬子が軍三の妻であり、原告片桐真、原告片桐稔および原告片桐剛が軍三の子であることを認めることができる。

二本件診療経過

当事者間に争いがない事実に<証拠>を総合すると次の事実を認めることができる。

1  昭和五二年一二月二〇日午前一時一〇分ころ、東京都豊島区池袋二丁目の歩道上に意識を失つて倒れている軍三を、通行人が発見して救急通報し、軍三は駆けつけた救急隊員によつて、近くの大久保病院に収容された。

2  同時刻ころ、大久保病院五階当直室にいた被告永田医師に看護婦から連絡があり、路上に横たわつていた泥酔患者が搬入された旨報告したので、同日午前一一時一五分ころ、被告永田医師は、一階診療室へ降りた。軍三には強度のアルコール臭があり、いびきをかき、ズボンが尿で濡れていた。

被告永田医師が軍三を診察したところ、意識不清明であり、疼痛反射はなく、対光反射は両側ともなかつた。また、右眼瞼部腫脹し、小さな溢血斑様のものが数個あり、鼻出血痕もあつた。呼吸三六/分整、脈拍六〇整、血圧一五〇/一一〇、胸・腹部は理学的所見なく、手指チアノーゼはなかつた。

被告永田医師は、診察の結果、軍三は急性アルコール中毒であると診断し、ラクテックG五〇〇mlの点滴を施行し経過をみることとした。

3  同日午前二時一五分、被告永田医師が軍三の診察をしたところ、意識不清明、呼吸は不整であり、血圧は一四〇/一一〇であつた。

4  同日午前二時二〇分ころ原告旬子が来院した後、同日午前二時二五分ころ再び被告永田医師が軍三の診察をしたところ、同人に時々戦慄がみられるようになり、手足の自動を認め、疼痛反射は遅鈍だがプラスであつた。

5  被告永田医師は、軍三の右症状の経過から、同人の急性アルコール中毒は徐々に改善傾向にあるものと診断し、同日午前三時二〇分ころ、原告旬子らに、退院し自宅で症状の経過をみるよう告げたため、原告旬子らは、軍三を車に乗せ、同日午前四時二〇分ころ、肩書地の自宅に連れ帰つた。

6  軍三は、自宅の部屋に寝かされてからもいびきをかき、全く意識はなく経過していた。原告旬子らは、軍三の症状は右のとおり改善される様子もなく、一層悪化するように思われたため、同日午前五時すぎころ救急車の出動を要請し、軍三は同日午前五時三〇分ころ到着した救急車で同日午前五時四五分赤羽中央病院に収容された。

7  赤羽病院収容時の軍三の症状は、意識は昏睡状態、瞳孔両側散大、対光反射なく、呼吸数一六/分、で不整、脈拍六〇整、血圧一四〇/八四、胸腹部は理学的所見なく、チアノーゼはなかつた。同病院では軍三が不規則な呼吸をしていたので、呼吸困難となるのを防ぐため気管切開をし、軍三の意識障害等の症状は、頭部外傷によるものと診断して、X線撮影、脳血管撮影等の各種検査をなしたうえ、骨折の存すると認められた右側頭部に血腫の発生した可能性があるものとの疑いの下に、同日午後三時二〇分から午後五時までの間、右側頭、頭蓋底硬膜外血腫の除去手術を行つた。

8  しかし、軍三は、翌二一日午前八時五二分、硬膜外血腫、脳挫傷等による脳腫脹によつて死亡するに至つた。

<証拠>のうち、右に認定したところに反する記載部分および供述部分、特に被告永田医師が、軍三の症状が頭部外傷にもとづくものとの疑いをもつて診療にあたつたとの点、軍三の診察をした際、四肢の麻痺、腱反射、バビンスキー反射等各脳局在神経症状において何らの異常も存しなかつたとの点、軍三の意識が午前二時二五分ころから格段に改善し始め、午前三時二〇分ころには、退院しうるほどの状況になつたとの点は、いずれも信用することはできない。

三頭部外傷または急性アルコール中毒による意識障害患者の臨床症状について

<証拠及び>鑑定の結果によると次の事実を認めることができ<る。>

1  急性アルコール中毒による意識障害患者の臨床症状について

急性アルコール中毒の症状は、飲酒量、飲酒後の時間経過、慢性アルコール中毒合併の有無、個人差などにより差異があるが、一般に①単純酩酊、②複雑酩酊、③病的酩酊に分けることができる。即ち、

単純酩酊は、行動・思考の抑制が低下したもので、思考・行動の変化は軽く、正常人が理解しうる範囲のものである。

複雑酩酊は、いわゆる泥酔状態で、論理的思考、周囲をわきまえた行動、論理的な会話は不可能で、健忘を伴うことがある。傾眠、昏迷、半昏睡、昏睡に到る種々の程度の意識障害を伴う。さらに、各種の精神症状を併せ示すことが多い。それらは見当識障害、錯乱、抑うつ、興奮、錯覚、思考・感情変化などであるが、これらを総合してみるに、正常人と比して全く異質な精神症状とはいえない。

病的酩酊は、飲酒量の多少にかかわらず、また意識障害の程度が軽度であるにかかわらず、人格変化を生ずるもので、平常の行動からは予想困難な異常行動を示す。また覚醒後健忘を伴う。

急性アルコール中毒に伴う身体的症状もまた飲酒後の経過時間、飲酒量、慢性アルコール中毒の合併の有無等により種々である。一般に血圧は正常あるいは軽度に低下、脈拍は正常あるいは頻脈、顔面躯幹は紅潮することが多い。呼気にアルコール臭を示す。呼吸は正常あるいはややゆつくりだが、不規則となることは稀である。いびきをかいて眠ることがある。

2  頭部外傷による意識障害患者の臨床症状について

外傷の程度、受傷後の時間経過、外傷に伴う頭蓋内血腫発生の有無などにより種々であるが、一般に①意識障害そのもの、②それに伴う精神症状、③脳損傷に伴う脳局在神経症状、④一般身体症状に分けて考えることができる。即ち、

意識障害については、傾眠、昏迷、半昏迷、昏睡など種々の程度がある。

精神症状は見当識障害、錯乱、不穏、興奮などを示すことがある。

脳損傷による脳局在神経症状は、損傷部位によつて千差万別であるが、片麻痺、けいれん、失語症、各種脳神経症候、左右瞳孔不同、共同偏視、半盲、病的反射出現などがおこりうる。

一般身体所見は、外傷の程度により種々であるが、頭蓋内血腫、脳浮腫などの発生により頭蓋内圧が高くなれば、最高血圧は上昇し、脈圧は増加し、脈拍は徐脈となる。但し極めて重症の場合や、多量の出血を伴う時は、血圧は低下し、脈は頻脈となる。呼吸は正常のこともあるが、頭蓋内出血、脳浮腫などが発生すれば、呼吸はゆつくりと深くなり、更には過呼吸、チェーンストークス呼吸、失語性呼吸など色々な形の呼吸障害を示すようになる。なお、頭蓋骨折が頭蓋底に及ぶ時は、耳出血、鼻出血、口腔内出血、メガネ状溢血などを示すことがある。

3  急性アルコール中毒および頭部外傷による意識障害が併存する場合の臨床症状について

飲酒量、飲酒後の時間、慢性アルコール中毒の有無、個人差、頭部外傷の程度、受傷後の時間、頭蓋内出血の有無などにより種々の態様があるが、一応①意識障害、②精神症状、③脳局在神経症状、④一般身体所見に分けて、その症状を整理することができる。即ち、

意識障害は、傾眠、昏迷、半昏睡、昏睡と種々の程度があり、意識障害の時間的推移が重要である。

精神症状は、見当識障害、錯乱、不穏、興奮、錯覚、思考、感情変化など種々のものがある。

脳損傷による脳局在神経症状は多種あるが、片麻痺、けいれん、失語症、左右瞳孔不同、共同偏視、半盲、病的反射、各種脳神経症候などが主なものである。

一般身体所見としては、血圧が高いときは頭蓋内圧亢進をその原因の一つとして考える必要があり、徐脈も頭蓋内圧亢進時におこりうる。呼吸障害は、頭蓋内血腫、脳挫傷、脳浮腫等により過呼吸、チェーンストークス呼吸、失語性呼吸、無呼吸などがみられる。アルコールのため呼気にアルコール臭があり、顔面は紅潮を示すことが多い。若し頭蓋底骨折があれば、耳・鼻・眼周囲・口腔等の出血をみることが普通である。

4  検査および措置について

頭部外傷の存在が疑われた場合において、直接生命を左右するのは、脳挫傷とそれに伴う脳浮腫、または頭蓋内血腫の発生であり、従つてこのような変化の有無に対する検査が必要である。

そのためには、意識障害の推移、神経症候の推移、一般身体症状の推移を精密に観察することがまず重要であり、観察すべき期間は、急性頭蓋内血腫の発生が受傷後四八時間以内に多いことを考慮して慎重に考慮すべきものとされているが、さらに確定的な診断をするには、専門的検査を行うことが必要であり、現在の医療水準においては、CTスキャンが最も有力な検査法とされ、CTスキャンが不可能な場合には脳動脈撮影が次に有力な検査法である。しかしながら、本件事故発生当時は、CTスキャンは、未だ普及しておらず、脳動脈撮影についても脳神経外科専門医を擁する医療施設以外では実施困難な状況であつた。

なお、頭蓋骨単純X線撮影は、直接には血腫の存在を示さないものの、頭部外傷にもとづく硬膜外血腫例では骨折を伴うことが多く、これらの発見に資するので有力な資料となるものである。

そして、右検査において重大な病変が確認された場合においては、マンニットール等の高張液、ステロイド等を投与して脳浮腫の軽減をはかるとともに、開頭手術の適応があれば早期に実施し、血腫を除去し、外減圧をはかるなどの措置をとるべきである。

四被告永田医師の軍三に対する診察および治療の適否

前記二項認定の本件診療の経過に前掲鑑定の結果を徴すると、①軍三は、大久保病院に収容されて以降退院するまでの間、一貫して昏睡と評価しうる意識障害の状況にあつたこと、②軍三の脳損傷による脳局在神経症候については、対光反射がなかつた点を除き、全く不明というほかないこと、③軍三は、収容時一五〇/一一〇であつた血圧が、午前二時一五分には一四〇/一一〇となり、血圧の上昇は認められておらず、また収容時の脈拍六〇/分で整であつたものであるが、午前二時一五分以降の血圧の状況および収容時以降の脈拍の状況については不明というほかなく、呼吸については、来院時には整であつた呼吸が、午前二時一五分には不整となつており、その他一般身体症状の詳細についてもこれまた不明というほかないこと、④軍三は、収容時右眼瞼部腫脹し、小さな溢血斑様のものが数個あり、鼻出血痕も存していたことをそれぞれ認めることができ、以上の事実に前記二、三項に認定したところを総合して考察すると、軍三は、歩道上に意識を失つて倒れているところを通行人によつて発見され、救急車により大久保病院に入院したものであり、しかも収容時右眼瞼部腫脹し、溢血斑様のものがあり、鼻出血痕も存するなど、右意識障害が頭部外傷にもとづくものではないかとの疑いをもつてしかるべき状況において収容されているものであるうえ、右①は、頭部外傷による意識障害それ自体に、右③のうち呼吸不整の点は頭部外傷による一般身体症状に、右④は、頭蓋骨折が頭蓋底に及ぶ時に示す症状に各該当するものであるし、また軍三の脳損傷による脳局在神経症候については、何らの確認措置がとられた形跡もないから不明というほかなく、さらに収容時における血圧、脈拍および午前二時一五分以前における血圧を除くその余の一般身体症状も不明というほかないから、軍三の意識障害が頭部外傷にもとづくものとの疑いは、収容時以降強まつたものとすらいうべきであり、到底否定しうる状況にはなかつたものといわなければならない。

なお、被告らは、収容時、軍三には強度のアルコール臭があつたことを捉えて、同人の意識障害は急性アルコール中毒によるものである旨主張するが、急性アルコール中毒による症状は前記三項認定のとおりであり、これらによつて軍三の症状を説明しうることを否定しえないものの、軍三の意識障害は収容時以降一貫して昏睡に近い状況にあつたことに照らし、にわかに肯定し難いものであるし、まして右アルコール臭の点を捉えて、軍三の意識障害等の症状が専ら急性アルコール中毒のみにもとづくものであり、頭部外傷によるとの疑いを払拭しうるものであると肯認し難いことは多言を要せずして明らかであるものというべきである。

そうだとすると、被告永田医師は、収容時以降、軍三につき、頭部外傷による意識障害患者であるかもしれないとの疑いのもとに、継続的に意識障害の推移の経過観察、脳損傷に伴う脳局在神経症状の有無の把握、一般身体症状の把握をするとともに、頭蓋骨単純X線撮影を行い、骨折の有無について確認するなどして頭部外傷にもとづく頭蓋内血腫の発生、脳損傷とそれに伴う脳浮腫等の重大な変化の発見に努めるべきであつたものであり、さらに確定的診断のため必要とされるCTスキャン、脳動脈撮影等の専門的検査および右検査において重大な病変が確認された場合における開頭手術措置など脳神経外科専門医を擁する医療施設以外では実施困難な検査および措置を施すために、軍三を右医療施設に転送する措置をとるべき義務があつたものといわなければならない。

しかしながら、前記認定の本件診療の経過に徴し、被告永田医師が右義務を尽したものとはいい得ないことは明らかであるから、同被告に右義務に違背する過失が存したことは否定し得ないものというべきである。

五頭部外傷による意識障害患者の救命の可能性について

1  <証拠>並びに前掲鑑定の結果によると、頭部外傷の予後として次の事実を認めることができ<る。>

佐野圭司らは、外科治療一三巻四号(昭和四〇年一〇月)に発表した論文中において、頭部外傷により発生した急性頭蓋内血腫を開頭手術により除去した場合、救命できるかどうかを術前に判定するための指標として、年齢、衝撃方向、外傷直後の意識障害時間、意識清明期の有無、術前の意識状況の程度、頭蓋円蓋部骨折の有無およびその程度、嘔吐の有無、瞳孔の異常の有無およびその態様、共同偏視の有無、運動麻痺等の有無、痙攣発生の有無について掲げ、これらの各項目を一定の度合いによつて総合評価して救命可能性を判定すべきである旨提唱し、うち外傷直後の意識障害が一二時間以上の場合、意識清明期がない場合、術前の意識状態が昏睡状態である場合、瞳孔が両側散大の場合に関し、救命の可能性を否定する大きな要因として位置づけている。

第一回日本神経外傷研究会講演集に掲載されているリチャードの「頭部外傷急性期における意識障害の予後評価」と題する講演では、昏睡とは意識が覚醒しない状態をいうが、これを昏睡Ⅰないし昏睡Ⅳに分類しうるとし(昏睡Ⅰには格別の神経学的障害を一切伴わない意識消失のある場合、昏睡Ⅱは不全麻痺と発作または瞳孔障害、特に瞳孔不同を伴う意識消失のある場合、昏睡Ⅲは昏睡Ⅱにおけると同様な無意識であるが、四肢のうち少なくとも一肢の伸展反応を伴つた意識消失があり、このほか瞳孔運動障害がみられる可能性もある場合、昏睡Ⅳは筋緊張が弛緩し、瞳孔は散大無応答であるが、自発呼吸を伴つている意識消失の場合)、このうち昏睡Ⅳ(すなわち原発性で長期にわたる四肢の緊張の欠如と固定した散大瞳孔)の徴候を事故直後あるいは二時間以内に呈した場合にはその生存可能性は否定的なものであること、昏睡開始時期を問わず昏睡Ⅳが四時間以上続くような場合においては、生存不可能な段階にあること、昏睡Ⅳが四時間以内の場合には生存可能性を否定しえないとはいうものの、四五分以上持続した場合の生存の見込みは極めて薄いことを指摘している。

その他の成書および学術論集中にも、神経外科センターに入院した頭部外傷による昏睡患者中約五〇%が最良の処置を行つても死亡すること、六時間またはそれ以上持続する安定した意識消失とそれに伴う脳損傷の徴候により特徴づけられた重症頭部外傷の死亡率は非常に高いものであり、仮に救命されたとしても高度の神経学的、社会生活上の障害を残す、いわゆる植物人間の状態となること、意識障害の持続時間が長い程予後は不良であり、初診時またはその後何時でも瞳孔反応または眼球頭反応あるいは両者の消失は、外傷性昏睡では悪い予後を示し、昏睡発症後六時間目に両側性無反応の瞳孔または眼球頭反応の消失のいずれかを示した患者の九五%は死亡し、二四時間目に瞳孔が固定していた場合は、一〇〇〇名の患者の九一%が死亡したという報告、入院時両側瞳孔が固定していた場合には、八五%の患者が死亡したか植物状態にとどまつたという報告の存することが記載されている。

2 そこで検討するに、前記二および四項認定の事実に前掲証人佐藤の証言および前掲鑑定の結果を総合して考察すると、①軍三は、昭和五二年一二月二〇日午前二時ころ頭部外傷を受けた以降死亡に至るまでの間、継続して昏睡と評価しうる意識障害の状態にあり、意識清明期はなかったこと、②軍三の大久保病院収容中の瞳孔の状況は、対光反射がなかった点を除き定かではないものの、遅くとも同日午前六時ころまでには、固定した散大瞳孔を示しており、対光反射もなかつたこと、③赤羽病院では、軍三収容後の診察して間もない同日午前七時ころまでには、開頭手術の適応があるものとの診断が下され、手術を施行するために必要な各種専門的検査が開始されていること、④軍三は、赤羽病院における硬膜外血腫除去手術が施行されているにもかかわらず、翌二一日午前八時二五分、硬膜外血腫、脳挫傷等による脳腫脹によつて死亡したことからして、右1認定の医学上の知見に照らすと、軍三が受けた頭部外傷にもとづく疾患につき、これが死の転帰をとることは、仮に被告永田医師が先に四に認定判示した義務を尽していたとしても、これを避けることはできなかつたものというべきである。

六因果関係についての判断

以上に判示してきたところによれば、被告永田医師には、前記注意義務違背の存することは否定し得ないが、右過失と軍三の死亡との間には相当因果関係があることは肯認し難いことに帰するから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は理由がないものというほかない。

七結論

よつて、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官落合 威 裁判官坂本慶一 裁判官杉江佳治は海外出張中のため署名押印できない。裁判長裁判官落合 威)

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